上野国山上(やまかみ)氏(13)
山上六郎左衛門
「山上六郎左衛門」は、先の「太平記にみる山上氏」の章で紹介しましたが、「中先代の乱」後、建武二年(一三三五)十一月十九日、後醍醐天皇の宣旨を受け朝敵足利尊氏討伐に鎌倉へ向かう大将軍新田義貞軍の一将として名があります。
『太平記』「巻第十四 節度使下向事」、同「巻第十四 箱根竹下合戦事」に登場します。しかし、この戦後(いくさ)の六郎左衛門の足跡は不明です。伝承として新里町の「お藤桜(おかめ桜)」の話に伝わっているだです。
山上六郎左衛門の姿を追い求めて、弘安3年(1333)5月の義貞挙兵前から建武2年(1335)12月の「箱根竹下合戦」までの新田義貞の足跡を追ってみることにします。六郎左衛門は義貞とともに足利尊氏との戦いの日々を送ったと思われるからです。
義貞、幕府軍として千早城攻め参陣
義貞は、山上太郎跡と時を同じくして、弘治三年の千早城攻めに幕府方で参陣しています。
『太平記』「新田義貞賜綸旨事」(『群馬県史』資料編6)に
関東ノ催促随テ金剛山ノ搦手ニゾ被向ケル
とあります。
義貞は、鎌倉幕府の命令に従って、楠木正成が籠もる金剛山(千早城)の搦手に在陣していたことが記されています。弘治三年当時の新田義貞は、幕府軍の下にあって、後醍醐天皇の反幕勢力を討伐する側にあったことがわかります。
幕府軍は、千早城の制圧に手間取っていました。その間に、その勝敗を左右する出来事が起こります。
後醍醐天皇、船上山で挙兵
まずは、元弘三年(一三三三)閏二月、隠岐島に配流されていた後醍醐天皇が、島を脱出し伯耆国(鳥取県)船上山(せんじようさん)(鳥取県琴浦町)に籠もり再び挙兵したことです。
天皇は幕府の討伐軍を退け、幕府北条氏追討の綸旨を発しました。北条氏は朝敵となったのです。
幕府は、執権の跡継ぎ問題、得宗と執事内管領との対立をなどを繰り返し、一時しのぎ的な手しか打てず、根本的な解決を見出せない状況にあったのです。
幕府は内部から弱体化し崩壊の道をたどっていました。後醍醐天皇は、この機に挙兵したのです。
足利尊氏の幕府軍離脱と挙兵
次ぎに、足利高氏が幕府北条方から離脱したことです。
高氏は、幕府から元弘元年(一三三一)七月に始まった「元弘の変」に続き、元弘三年(一三三三)三月、船上山の鎮圧にも派兵を命じられました。妻登子(のりこ)と嫡子千寿王を人質に残し、三千騎を率いて鎌倉を出立したのです。高氏もこの時期まで、鎌倉幕府の下にあったことがわかります。
しかし、今回の出兵は、反幕の意を秘めた出立でした。同年四月高氏は入洛します。その翌日のことについて次の様にあります。
足利殿ハ京着ノ翌日ヨリ、伯耆ノ船上ヘ潛ニ使ヲ進(まいら)セテ、御方ニ可参由ヲ被申タリケレバ、君殊(こと)に叡感(えいかん)有(あつ)テ、諸国ノ官軍ヲ相催シ朝敵ヲ可御追罰由ノ綸旨ヲゾ被成下ケル。
(『太平記』「山崎攻事付久我畷手合戦事」
高氏は後醍醐天皇の綸旨を得て、北条氏の討伐を諸国の武士に挙兵を促したのです。
同年五月京都篠村八幡宮(京都府亀岡市)に、綸旨を受けた高氏のもとに、反幕勢力の武士たちが終結ました。同月七日、高氏軍は官軍として二万五千余騎を率い、京都六波羅に向けて篠村を出立しました。六万に膨らんだ軍勢は、その日のうちに六波羅を攻め落としたのです。