上野国山上(やまかみ)氏(12)
第二章 山上氏とその時代
第一節 それぞれの時代の山上氏
「山上氏」をそれぞれの時代に位置づけてみますと、およそ次ぎのようになります。
◎平安時代末期~鎌倉時代
山上五郎高綱、山上四郎時光、山上弥四郎秀盛
山上太郎高光、山上五郎重義、山上藤四郎
◎建武の新政・南北朝時代
山上太郎跡、山上七郎五郎、山上十郎太郎
山上六郎左衛門、山上太郎左衛門
◎室町時代
山上十郎公秀、山上平六
山上藤七郎氏秀、山上治部大輔
◎安土桃山時代(戦国時代)
山上美濃守、山上藤九郎
山上郷左衛門、山上郷右衛門
山上新左衛門
一 建武の新政・南北朝の頃の山上氏
平安時代末期から鎌倉時代の「山上高光」については先に述べましたので、建武新政・南北朝の頃の山上氏について記します。
鎌倉幕府は、将軍(幕府)と御家人との主従関係「ご恩と奉公」の関係が崩れていくなかで、幕府は滅亡へと向かっていきます。
この時期に登場するのが「山上太郎跡」、
「山上六郎左衛門」、「山上十郎太郎」です。
(一)山上太郎跡
この「跡」とは、「山上太郎の子孫」という意味です。ただ、山上太郎跡の父祖が「山上太郎高光」であるかは不明です。
山上太郎跡は、鎌倉幕府軍として、楠木正成篭もる千早城攻めに参戦します(『楠木合戦注文』)。
文保(ぶんぽう)2年(1318)2月、後醍醐天皇が即位しました。その数年後から天皇は、天皇を中心とした朝廷による政治体制づくりをめざします。
後醍醐天皇がこの政治体制を実現するためには、武士を天皇の「臣下」に置かなければなりません。「倒幕」を必要としたのです。
後醍醐天皇は、綸旨を発して寺社・武士などの反幕府勢力を組織し、「正中」「元弘」と、倒幕を画策したのですが、いずれも幕府に鎮圧されてしまいます。
しかし、これら「正中の変」「元弘の変」を経ても倒幕の動きは鎮まることはありませんでした。むしろその動乱は広がっていったのです。
「元弘の乱」後の、元弘2年(1332)3月、倒幕勢力の中心であった後醍醐天皇は、隠岐島(島根県)に配流されました。天皇に代わって反幕・倒幕勢力の中心になったのは、天皇の皇子大塔宮護良(もりよし)親王です。 親王は、同年11月大和国吉野で挙兵。呼応して楠木正成が河内国千早城で再び挙兵したのです。
鎌倉幕府の得宗北条高時らは、大討伐軍を派兵しました。その数は百万とも二百万とも言われています。その数は誇張されているのでしょうが、大軍であったことには間違いないでしょう。
この幕府軍の寄手のなかに「山上太郎跡」の名があります。
「楠木合戦注文」(『群馬県史』「資料編6中世2)に
[大番衆 紀伊手]
佐貫一族・大胡一族・山名伊豆入道跡 ・寺尾入道跡・和田五郎跡・山上太郎 跡・・・・以下略
と、あります。
このことから、山上太郎跡は鎌倉幕府の御家人として、京・内裏・御所を警備する「大番衆」として、六波羅探題に籍を置いていたのでしょう。そして「紀伊手」から千早城を攻撃する一軍に属したのです。
またこの時、多くの上野国の御家人が大番衆として参戦していたようです。