上野国山上(やまかみ)氏(16)
新田義貞 鎌倉を去り都へ向かう
※長らく間を空けての寄稿です。この時期上野国山上保には山上六郎左衞門という武士がいました。六郎左衞門は新田義貞軍に従軍し、「義貞の16騎党」の一人でした。そこでしばらく新田義貞の動向を追って原稿をおこし続けています。
元弘3年(1333)5月22日、新田義貞は鎌倉東勝寺の合戦を最後に「平家九代ノ繁昌一時二滅亡(『太平記』)」させ、鎌倉を落としたのです。
※平家九代(北条九代):時政,義時,泰時,時氏,経時,時頼,時宗,貞時,高時
しかし、義貞はその年の初夏には鎌倉をあとにして都に上ります。
五月是月 足利高氏、細川和氏等ヲ鎌 倉ニ遣ワス。和氏等、尊氏ノ子千壽王ヲ 擁シテ、義貞ニ挑戰ス。義貞之ニ應ゼズ。 尋デ、潔ク鎌倉ノ功ヲ棄テ、上洛ス。 (『新田義貞公根本資料全』)」
何があったのでしょう。今回は義貞が陥落させた鎌倉を去らざるをえなかった原因や背景を追ってみました。
(1)鎌倉の治安回復
新田義貞によって陥落した鎌倉には、時を移さずして騒乱が巻き起こります。義貞軍は、北条鎌倉幕府に不満を持っている集団であるものの、それぞれの思惑を持った武士団の集まりでした。ご多分に漏れず鎌倉を占拠した武士たちによる「二条河原落書」で言う「此比都ニハヤル物」の略奪暴行が横行し、加えて北条氏やその被官・旧臣の残党狩りなどが激しさを増していきます。
※『太平記』「巻第十一五大院右衞門宗繁賺二(すかス) 相模太郎(ヲ)一 事」 に詳しい
鎌倉の治安回復は、新田義貞派と足利高氏の嫡子千寿王派によって進められます。
※千寿王とは、『太平記』「巻第十 千壽王殿被レ落二大藏谷一事」 には「足利殿ノ二男千壽王殿」とある。長男は「竹若殿」とあるが、 『尊卑分脈』に「竹若」の記述はない。
『尊卑分脈』では嫡子とされ、後の第2代将軍足利義詮である。
※千寿王は、高氏が鎌倉幕府の命令により千早城攻めに向かうに あたって人質として鎌倉に留め置かれていた。千壽王は「元弘三 年五月二日夜半(『太平記』「巻第十 千壽王殿被レ落二大藏谷一事」) に鎌倉を出奔していた。そして義貞が挙兵した5月8日の翌日9日に 武蔵野国で義貞軍合流し鎌倉攻めに加わった。
鎌倉の治安回復は、東国支配・東国経営の拠点鎌倉を入手することにもつながり、両派にとって重要な権力争いの場となったのです。言い換えれば、鎌倉は「戦(いくさ)の場」から「政(まつりごと)の場」となったのです。
「政の場」として先んじたのは高氏でした。
高氏は、元弘3年(1333)5月7日六波羅探題攻略して間もなくと思われますが、千寿王の後見として細川和氏・頼春・師氏兄弟の三兄弟を都から鎌倉に下向させました。
この細川氏の鎌倉下向は、千寿王の後見を目的としたものではなく、鎌倉へ逃れようとする六波羅探題諸将を追撃する討伐軍でした。
『太平記』「巻第九 越後守仲時巳下(いげ)自害事」に、六波羅探題の北条仲時(13代執権北条基時の子)が、高氏の追っ手軍により同年5月9日に近江番場(現在の滋賀県米原市)で自害したことが記されています。
細川氏らの鎌倉下向の本来の目的は、足利高氏の命による鎌倉幕府の倒幕にあったのです。そのための先遣隊でもあったようです。
細川兄弟が鎌倉に到着したのは、鎌倉陥落後のわずか数日後のことと思われます。
※5月9日が近江番場。番場から鎌倉まではルート検索をか けると420㎞未満。一日30㎞で行軍すると番場から鎌 倉までの日数は約14日。計算上は5月23日鎌倉到着となる。鎌倉陥落は5月22日。このことから、細川兄弟の鎌倉到着は陥落数日後と推測した。
高氏自らが幕府を倒すという目的は、義貞によって成し遂げられてしまったということになりました。
すぐさま細川氏は、千寿王の後見役として義貞を押さえ込み、鎌倉を支配下におくために行動を起こします。
高氏は細川氏に「義貞が鎌倉を攻略したとは言え、『源氏の聖地』とも言うべき鎌倉を、義貞に渡すわけにはいかない。あらゆる策を講じろ」と言うような内容の命令を発していたのかも知れません。
ここに当然のごとく、義貞のとの間に対立が生じることになりました。
(2)鎌倉陥落の功績
鎌倉を攻略した直後の義貞について『太平記』「巻十一」は次のように記しています。
『 義貞已(すで)ニ鎌倉ヲ定テ(しずめ)、其(その)威(い)遠近ニ振ヒ シカバ、東八箇国ノ大名・高家、手ヲ束(つか) ネ膝ヲ不レ 屈ト(かがめ)云者ナシ。多日属随テ(つきしたがい)忠 ヲ憑(たの)ム人ダニモ如レ 此(かくの)。 (中略) 平氏悉滅(ことごとく)ビシカバ、関東皆源氏ノ顧(こ)命(めい) ニ随テ、此彼ニ(ここかしこ)隠居(かくれい)タル平氏ノ一族共、 數(あま)タ捜シ出サレテ、捕手(とりて)ハ所領ヲ預リ、 隠セル者ハ忽ニ(たちまち)被レ(ラルル) 誅事多シ』
義貞は関東にその威を振るい「膝を屈めない者はいなかった」というほどの勢いがありました。
義貞はこの勢いに乗じて、治安回復・維持の策として北条氏一族の残党狩りを強引におしすすめたというのです。義貞も鎌倉の治安回復を重要視していたことが分かります。
しかし、細川兄弟が鎌倉に入ってことから義貞の立場は急変します。
細川兄弟は、「鎌倉攻めは後醍醐天皇の朝敵討伐の綸旨
諸国ノ官軍ヲ相催シ朝敵ヲ可二 追罰一 由ノ綸旨ヲゾ被二 成下一 ケル(以下略) (『太平記』「巻第九 山崎攻事付久我畷合戦事」)
※高氏の入京は元弘3年(1333)4月16日(『太平記』「巻 第九 足利殿御上洛事」)。尊氏が後醍醐天皇の綸旨うけたのは「京着翌日(『太平記』「巻第九山崎攻事付久我畷合戦 事」)」 とあることから、同年4月17日のこと。
を受けた高氏の下知によるものである」「嫡子千寿王が鎌倉攻めに従軍していたからこそ、二十萬七千餘騎(『太平記』「巻第十新田義貞謀叛事付天狗催二 越後勢一 事」)の諸将が馳参じた」「高氏こそが源氏嫡家の当主である」「千寿王に従わないことは高氏や後醍醐天皇に背くことである」等を、義貞を揶揄するように言ったのしょう。
細川兄弟は、義貞を押さえ込み鎌倉を足利氏の手中に収めようとする戦略を強力に推し進めていきました。
鎌倉攻略の功績をめぐる新田氏と足利氏の論戦が、鎌倉陥落から2年ほどたった建武2年(1335)10月に尊氏と義貞が、後醍醐天皇への奏状書(『太平記』「巻第十四 新田足利確執奏状事」)に述べられています。
まずは尊氏がの奏状書です。
※奏状書とは、天皇に意見や事情を申し上げるための文書
『 尊氏長(ガ)男義詮(ヲ)為二(シテ) 三歳幼稚大(ノ)將一(ト) 起二(ツ)下野國一(ニ) 。其威(ノ)動レ(カシ) 遠、(キヲ)義卒(ぎそつ)不レ(ザルニ) 招(カ)馳(セ)加。(ハル) 義貞囊沙(のうしや)背水之謀(はかりごと)一 (タビ) 成而(ツテ)大 (イニ) 得レ(タリ)破 レ(ルコトヲ) 敵。(ヲ)是(これ)則(チ)戰(ハ)雖(モ)レ 在レ (リト) 他(※1ニ)、功(ハ)隠 (レテ)在レ(リ) 我。(ニ) 』 ※の「他」とは義貞のこと
「義貞の戦勝は義詮(千寿王)が挙兵したからです(~尊氏の心の内~「義詮の後ろ盾は私足利高氏です」)。だから多くの軍勢が集まったのです。戦ったのは義貞ですが、本当の功績は私にあります」という奏状です。
次に義貞の奏状書です。
『尊氏長(ガ)男義詮才(わずか二)率二(そつじ テ) 百餘騎(ノ)勢(ヲ)一 還(リ)二 入(ル)鎌倉(ニ)一 者、六月三日也。義貞随二(ヘテ) 百萬 騎(ノ)士(ヲ)一 立(たちどころニ)亡二(ボス)凶黨一(きようとうヲ) 者、五月二十二日 也。而義(ルニ)詮為二(シテ) 三歳幼稚之大將(ト)一 致(ス)二 合 戰(ヲ)一 之由、掠二(かすめル) 上聞(ヲ)一 之條、雲(うん)泥(でい)萬(ばん)里(り)之 差異(さい)、何(なんゾ)足レ(ラン)言。(ウニ)』
尊氏の奏状の誤まりを指摘しています。
尊氏は義詮が大将として合戦したかのように記していますが、後醍醐天皇への報告は事実と大きく異なり、真実からかけ離れ過ぎていますと奏状しました。
※この時、義貞は尊氏の八重罪を奏状している。
(3)新田氏と足利氏
新田氏と足利氏が互いに相いれない関係となったその始まりは、治承4年(1180)8月17日の源頼朝挙兵の時期に遡って見ることができます。
頼朝挙兵時、源義国の子新田義重(兄)と足利義兼(弟)の路線が異なっていました。
高氏の祖の足利義兼は、治承4年(1180)8月の源頼朝挙兵に従軍します。
※「尊氏」と名乗るのは、後醍醐天皇の諱の一文字「尊」を受けた元弘3年8月以降のこと。
足利義兼と源頼朝は従兄弟同士でした。
義兼の妻時子の姉が北条政子。政子の夫が源頼朝という姻戚(従兄弟)の間柄でした。
義兼はその後頼朝の御家人となり、子孫の足利氏当主は北条家本家当主(北条義時の嫡流。得宗家)や得宗家に近い北条氏と婚姻関係を結んでいったのです。
こうして足利氏は鎌倉幕府内で北条家一門とみなされるとともに、源実朝亡きあとの源氏の名門として厚遇されていたのです。高氏元服時の烏帽子親は、得宗北条高時でした。高氏は15才にして従五位下を受しています。
足利義兼とは対照的に、義兼の兄であり義貞の七代前の祖である新田義重は、源頼朝の時代から冷遇されていたのです。
ことの始まりは、治承4年(1180)8月17日の頼朝挙兵時の新田義重の動きにあったと言われています。
義重は開発した新田荘の支配権を、平氏政権に近い藤原忠雅に「保元二年(1157)三月八日に寄進(『群馬県史』「資料編5」)」しています。「仁安年中(1166~69六九)には、平重盛に仕えていた(『群馬県史』「通史編3」)」のです。
これら、義重の新田荘と平氏との関わりから、頼朝挙兵にすぐさま応じえなかったのではないでしょうか。
また、義重は八幡太郎義家の孫という自尊心もあって「自立志(『吾妻鏡』「治承四年九月大卅日の条」)」を示し、頼朝の下に馳参じなかったのだろうということはよく言われる所です。
義重は治承4年(1180)12月22日には頼朝陣営に加わったといいます。しかし、わずか数ヶ月の義重の振る舞いが頼朝から疎んじられ、鎌倉時代を通して新田氏は貴種源氏一族でありながら地方の一豪族に過ぎないという不遇の時を過ごす発端となったのです。
また、第4代執権北条経時の頃には、義貞の高祖父政義は幕府の認可ないままに任官を朝廷に求める事件をおこします。当時は幕府の許可がなければ、朝廷から任官を受けることはできませんでした。政義は罰せられ、政義も自ら幕府から遠ざかったのでした。
その後、新田氏は受領官に推挙されることもなく、所領も増えることはなく、官位もない地方の一御家人と化していました。
ですから鎌倉を攻め落とした新田義貞も無位無冠でした。
新田義貞と足利尊氏の身分の差について、『新田義貞』(新田次郎著)のあとがきに「尊氏と義貞を比較すると百万石の大名と一万石の大名ほどに差があった」と記しています。
鎌倉を攻略し幕府を倒した義貞と、京の六波羅探題を落とした高氏とでは朝廷の中においても、その知名度にも格段の差があったことにまちがいありません。義貞は地方の一御家人であり、高氏が「源氏の嫡流」と見られていたのでしょう。
(4)恩賞
鎌倉倒幕へ動きは、元寇の役後の御家人たちの窮乏であり、幕府への不平不満不信であっただけに恩賞問題は重要な課題でした。
鎌倉攻略直後は、新田義貞の陣に軍忠状が次々に届きました。
※軍忠状とは、戦いに参加した武士が、自分の戦功を書きあげ た文書。これを自軍の大将に提出し、恩賞を受ける証拠とした。
しかし、戦をともにした武士たちは、徐々に恩賞を目当てに千寿王のもとに集まり始めたのです。
武士たちには困窮から抜け出すために恩賞が必要であり、確実に恩賞を得るには背後に従五位下の身分を持つ高氏が控えている千寿王に従ったほうが得であることを選択したからなのです。
言いかえれば鎌倉の棟梁に足利氏を選んだといってもよいでしょう。
千寿王の後ろ楯には高氏がいるという誇らしさは、細川氏が義貞に言ったという言葉に
もうかがい知ることができます。
【 事ノ子細ヲ問尋ネテ、勝負ヲ決セント セラレケル (『新田義貞公根本資料全』)】
要は「言い分(文句)があるならいつでも兵を差し向けてもよい。戦って決着をつけようではないか」と。細川氏は義貞を見下し威嚇するような口調だったのでしょうか。
(5)義貞、京へ
義貞は、先に記した元弘3年4月17日の後醍醐天皇朝敵討伐の綸旨を重く受け止めたのでしょう。
細川氏と一戦交え、朝敵と見なされても鎌倉を手放さいという道筋もあったと思われます。
しかし、義貞は「細川氏と一戦を交えることは、帝の意に反することであり、朝敵と見なされることになる。さすれば新田氏一門末代の恥になる」と考えたのでしょう。
義貞は、朝敵になることを避け、鎌倉を去ります。都の後醍醐天皇のもとに参じることを選択したのです。
東国支配の拠点鎌倉は足利氏の支配するところとなり、東国経営の中心は足利氏が担うことなったのです。
義貞からすれば、東国経営と関東武士の棟梁となる機会と、その地盤を逸してしまったのです。
義貞は京に上った後の自らの置かれる立場について考えていたのではないでしょうか。
鎌倉時代の足利氏所領の分布図(『下野足利氏』) これを見ると、足利氏の所領は北は陸奥国から南は筑前国に点在していることがわかります。注目すべきは、近江国から西の国々にも多く点在していたことです。
足利氏の鎌倉幕府内で北条氏と強固な関係があったことうかがえます。
高氏自身も従五位下の官位を持ち、源実朝の死後は「源氏の嫡流」と見なされ、北条氏と姻戚血縁関係もあり北条氏に次ぐ高い政治的地位を築いていました。
高氏は六波羅探題を落とした後も、京に留まり後醍醐天皇・朝廷の動向から目を離さず、足利一門(同族)とのつながりを深めていたのではないでしょうか。
足利氏は北条氏に次ぐ政治的地位にあり、足利一門・所領は全国にあり、その嫡家が高氏でした。このことから、高氏の天皇・朝廷に及ぼす影響は大きく、またその力も強かったことが推測できます。
一方、義貞の新田氏は、所領もほとんど加増されることもなく、任官の推挙も拒まれており、鎌倉幕府からは冷遇されていました。
新田一族は、ほぼ上野国新田荘が中心の地方の一御家人とその家臣団に過ぎなかったのです。
朝廷内での人脈や新田氏同族も乏しいがため、都に上っても苦しい立場に追いやられる危うさが充分考えられました。
義貞は鎌倉幕府後の自らの立ち位置を充分わかっていたのでしょう。高氏とは別の道を歩みます。義貞は後醍醐天皇のもとで武士として生きる道を選択し、鎌倉をあとにして都へのぼって行ったのです。
その後、義貞は再び上野国の山々を見ることはありませんでした。生涯を賭して、後醍醐天皇(南朝)のもとで戦い続けたのです。
この義貞の軍に、上野国山上保(やまかみほ)の山上六郎左衞門(やまかみ ろくろうざえもん)がおりました。