上野国山上(やまかみ)氏 (10)
『曽我物語』にみる山上氏
源頼朝は、建久三年(一一九二)七月、後鳥羽天皇により征夷大将軍に任ぜられました。
その翌年の建久四年(一一九三)三月から巻狩を行っています。巻狩は、狩猟とともに権威を誇示す軍事演習です。
『吾妻鏡』には、この年の三月に三原野の巻狩に鎌倉出発したことや、那須野・富士野での巻狩の記録がありますが、いずれにも「山上氏」の名をることはできません。
「山上氏」の名が見られるのが、『曽我物語』においてです。
頼朝は、三原野(現在の東吾妻町)の巻狩が終わって、下野国の那須野へと向かう道筋に赤城でも巻狩をしました。その様子を『妙本寺本曾我物語』(『群馬県史』通史編3中世)に、次のようにあります。
鎌倉殿利根川の大渡を打超サセて勢田郡に入下レは 赤城山に付かせ下ツゝ太多(あまた)の狩 倉共を御覧する程に 七ケ日の間は御逗留 有り、曽我の人共は夜昼間も旡(な)ク躵(しのぶ)とも 大胡・大室・深栖・山上・寺尾・長野・那 波・大類・新田・鳥山・佐野・佐貫・佐位 ・苑田の人々用心禁シて 君を守護し奉れ(たてまつ) は少の隙コソ旡(な)ケレ
◎大渡…前橋市大渡町
◎勢田郡…旧勢多郡。現在は渋川市・前橋市・桐生市・みどり市となり消滅
◎狩倉…狩り場
◎諸氏の本拠地
・大胡…前橋市(旧勢多郡大胡町)
・大室…前橋市大室
・深栖…前橋市(旧勢多郡粕川村)
・山上…桐生市(旧勢多郡新里村)
・寺尾…高崎市寺尾町 ・長野…高崎市浜川
・那波…伊勢崎市(旧佐波郡)
・大類…高崎市(旧群馬郡大類)
・新田…太田市(旧新田郡)
・鳥山…太田市(旧新田郡)
・佐野…佐野市
・佐貫…甘楽郡明和町
・佐位…旧佐波郡の国人か・苑田(薗田)…桐生市(旧山田郡園田村)
とあります。
赤城山麓の巻狩の時期は、『吾妻鏡』から推定すると、建久四年三月二十一日に三原野に向け鎌倉を出立し、二十五日に武蔵国入間で狩りをし、期間は不明ですが三原野で巻狩をし、四月二日に那須野で巻狩をしたということから、赤城山麓の巻狩は三月の末頃であろうと思います。
『妙本寺本曾我物語』の「七ケ日の間は御逗留有り」とは、三原野と赤城山麓の巻狩で上野国に逗留した期間ではないかと思います。
この赤城山麓の巻狩に、山上氏(高光か)や東上野の武士団は頼朝の身辺警護にあたったのです。このことから、東上野の武士団は頼朝の勢力下に属したことがわかります。
同様に、西上野の武士団も三原野の巻狩に加わり、頼朝の下に組みしたのでしょう。
こうして、三原野・赤城山麓の巻狩を通して、上野国のほとんどの武士団は、頼朝の御家人としての立場を明確にし、頼朝の陣営に属することになりました。源頼朝は上野国での基盤を固め、武士団との主従関係を確立したといえるでしょう
源頼朝は、那須野巻狩の後、同年五月富士野藍沢(御殿場市)の巻狩に出立します。(『吾妻鏡』建久四年五月八日の条)
『吾妻鏡』の条には「山上氏」の名はありませんが、富士野巻狩の陣容について記した『曽我物語』にはみることができます。
その陣容について『曽我物語』(巻第八 屋形まはりの事)では
(参内した武士団は)坂東八か国、海道七 か国のみにあらず、三年の大番、訴訟人と 言ふ程の者の屋形、雲霞(うんか)の如くなり。
さて君の御座所をばまん中に、四角四面に 瑠璃を延べ、五十九間に飾られたり。面々 思ひ思ひの屋形づくり、色々の幕の紋、金銀をちりばみてこそ飾られけれ。凡そ屋形 の数、二万五千三百八十余間也。総じて上 下の屋形の数、十万八千間、軒を並べて小 路を遣り、甍(いらか)を並べて打ちたりけり
とあります。
この陣容の中に
上野の国には、伊北・伊南・庁北・庁南・ 印東・金岡・小寺・深栖・山上・大こし・ 大室、上総の国には、桐生・黒川・多胡・ 片山・新田・園田・玉村、安房の国には、 ・・・(中略)・・・、屋形を並べて候ふ 也。・・・(後略)
と、「山上氏(高光か)」の名が記されています。
源頼朝は、富士野の巻狩には関東・東海の御家人を動員しました。武家政権の棟梁としてその武威を誇示するとともに、武士団とは「ご恩と奉公」の主従関係を強固なものにしたといえるでしょう。
また、頼朝の信濃三原野・赤城山麓・那須野原・富士野の巻狩は、浅間山・赤城山・那須岳・富士山という山々に、征夷大将軍となったことを報告し、鎌倉幕府の長久を祈ったという面もあったのではないでしょうか。